こころの病気と向きあう

第6回:人をケアする人にこそケアが必要です

特例社団法人日本精神科看護技術協会会長 末安 民生

今年の4月のこと。昨年の4月の自分の気持ちがあまりはっきり思い出せないことに気づきました。4月は例年であれば人の行き来しに目を向けたり向けられたりする季節です。そういえば自分も昨年は50数年生活していた関東を離れて関西の地に踏み出した大転換の年だったのです。それなのにその4月、その場に居合わせたであろう晴れがましい人々の笑顔や立ち振る舞いがよく思い出せない。私はこの気がかりを解きほぐしたいと思いました。

人の行き来に限らず、さまざまな区切りが訪れる4月は、人の去就が新しい関係として動き出す緊張の瞬間でもあります。思い起こせば緊張して重い気持ちになっていた4月もあれば、一生のつき合いになるような得難い先輩、友人との出会いを得ると温かな気分になる季節でもありました。

人の感情の明暗がさまざまな条件で複雑な輝きをもつときとでもいえばよいのでしょうか。人の姿を新しい光が彩る4月。私の人生にとっても大切な月であったのにもかかわらず、よく思い出せない昨年の4月は、輝く光ではなくて重い雲がかかってしまっているようなのです。

考えられる原因は1つです。4月から遡ること20日余り前の東日本の震災です。私はその瞬間、大阪の高層ビルのエレベーターの中にいました。エレベーターは近接階で急停止しエレベーターホールに出たものの建物の揺れは収まっていませんでした。目標の階までは階段で上がったものの、続く余震で会議での会話はたびたび中断し、壁にかかった額が左右に大きく揺れていたことを鮮明に覚えています。その時点では大きな地震という以外の情報は何一つなかったのですが、ついにその日は東京には戻ることはできませんでした。テレビでは東日本の状況が刻一刻と伝えられ、東京では多くの帰宅難民が歩いて自宅に向かう姿、学校や公共施設が開放されて多くの人々が夜を過ごしていることが報道されていました。

まだたくさんの人々の命や暮らしが根こそぎ奪われているということは知る由もありませんでした。そして4月。私にとっては季節の華やぐ気分は得られていなかったのです。その後の私は、新しい勤務先で執務をしつつも精神科看護師の職能団体の責任者として「遠くからできることを探し続け、可能な限り早く支援を実施していくための手探りの1年」だったのだと思い至りました。たくさんの看護師が東日本に米や水を持って向かってくれました。時間の許す限り病院で、避難所で、地域の社会復帰施設で食料、燃料を調達する手伝いをし、現地のスタッフとともに暖を取ることもままならない中で一緒に夜勤をし続けてくれました。私どもの団体の品川の事務所と研修施設は、物資中継基地化しました。

被災者ではない私には何ができるのだろうか。多くの人々が被災体験の最中にある人たちにできることはなにかを考えた1年だったと思います。被災していないという現実と、まさに渦中にいて違う現実を生きている人たちにできることを考え続けた1年だったと思います。

先ごろ石巻の、自らも被災しながらも休まずケアを続けている在宅サービスの看護師さん方とお話しする機会がありました。その方たちに私は、「ケアする人もケアされないとケアが続けられない」と話し、それを聞いた彼女たちは「ああ、私たちもケアされていいんだ」と思えたと教えてくれました。

たとえ自分が被災者でもその悲しみや苦しみを抑えて支援し続けなければいけない人のそばに立ち続けているからこそ聞くことのできた言葉でした。自分の辛い苦しい気持ちを感情の影の中に押しこめないでもよいと思ってもらえること。被災者だけではなく被災している人をケアする人の気持ちが自らを解きほぐされる。自分という存在感を確かめてもらえることが押しつけられることなくできることが必要なのだと思います。

著者を含む精神科の看護師の具体的な支援活動は日本精神科看護技術協会のホームページでご覧ください。

http://www.jpna.jp/outline/greeting.html

 

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